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当麻寺の雨(後)

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当麻寺の雨(後)

続きです。
前半の注意書きをお読みの上、どうぞ。




*******

当麻寺は思ったとおり、ひっそりと静かだった。
観光客の姿もなく、小学生たちが一隅に固まってスケッチをしているのと、時折ハイキング姿の若者がすれ違っていくくらいのものだ。

東門から眺めると、手前に鐘楼があり、金堂と講堂を左右にして、正面に有名な曼荼羅を納めてある本堂の建物が見える。
左手の黄葉の中にそびえているのが、東、西の両塔だ。
どの堂宇も石を積んだ基壇の上に建てられていて、やや腰高な印象を与えるのが特徴かもしれない。

二上山は、その背後に、寺を見下ろすようにそびえていた。
すでにさっきまでの晴れた空は灰色に変わっている。
湿った風が、悪意でもあるかのように吹きはじめた。

「雨になるかもしれないな」

「まさか」

征士は物珍しそうに境内を見回すと、どこかで一息入れたいんだがな、と、呟く。

「書院の座敷の方で、茶が飲めるはずだ」

「そこへ行こう」

俺たちは中の坊の書院の、赤い毛氈の敷いてある座敷で、茶と菓子をいただいた。
征士は茶を運んできた品のいい婦人に、すみません、と謝って膝を崩し、率直なやり方で茶を飲み干した。

「いい思い出になった。ありがとう」

俺は何となく落ち着かない気分に襲われた。
征士は、本当に仕事のついでに俺を訪ねてきたのだろうか。
ひょっとすると、他に何か理由があるのではないかと思ったのだ。

「征士。仕事の方は、どうなんだ?」

「ああ」

征士はしばらく黙りこんだ。
それから呟くように、

「よくはない。こういう時期だからな」

征士の勤めている国鉄が、分割民営とやらで色々もめていることは、もちろん俺だって知っていた。
しかし優秀な成績で採用され、仕事も真面目にやっている兄のことだから、まず将来の心配はないものと、安易にそう考えていた。

「だって、征士は大丈夫なんだろう? 技術もあるんだし」

「それが、そうでもないのだ」

征士はちょっとばつの悪そうに笑うと、

「私は先月から、人活行きになった」

「ジンカツ?」

「ああ。人材活用センターに回されることになったのだ。しまらない話だ」

人材活用センターがどういうところなのか、俺はよくは知らなかった。
征士の説明によると、国鉄当局の目から見て余剰と思われる人員や、組合活動に積極的なメンバーが主として配転させられるところらしい。

「構内の清掃だとか、草むしりとかな、まあどうでもいいような仕事ばかりやらされている。しょっちゅう怒鳴られ、嫌ならいつでも辞めろと言わんばかりの扱いだ」

「征士は技術者としての資格も持っているだろう?」

「いろいろあってな」

征士はあまり詳しくは話してくれなかった。
でも、俺には征士がどんなに辛い思いをして働いているかがわかるような気がした。

「国鉄なんか、辞めたらいいんじゃないか?」

「そうはいかん」

征士は首を振った。
静かだが、断固とした首の振り方だった。

「私一人の問題ではないからな」

「でも、人のことを考えている場合じゃないだろう」

「当麻は心配しなくていい」

征士は優しい口調で言うと、俺の肩を抱くようにして微笑した。

「雨になってきたな」

懐かしい、征士の体温。
俺は顔を背けて、外を眺めた。

白く冷え冷えとした雨が、光りながら降り注いでいる。
庭の石畳の上に散った黄葉が、雨に現れて鮮やかに目に染みる。

「本堂へ行こう」

俺は征士を促して、立ち上がった。
中将姫の像を、どうしても征士に見せたかったのだ。


中年の婦人に傘を借りて、俺たちは本堂へ向かった。
二上山はもうかき消すように濃い雲の中に、その姿を隠してしまっていた。

靴を脱いで本堂に上がると、俺たちは見上げるほどに巨大な、暗い空間の中の曼荼羅を拝観した。
この当麻寺の有名な曼荼羅は、いわゆる密教の曼荼羅とは異なって、いわば経典に説かれた西方浄土の様子を目に見えるように描いたものだ。

案内を依頼すれば、もっとよく見せてはもらえるが、雨の日の内陣は薄暗く、時代を経た曼荼羅図の細部は、ほとんどわからない。

俺は曼荼羅の前を離れて、右手の方へ征士を案内した。
厨子の北側にあたるその薄暗がりの中に、中将姫の座像が安置されているのだ。

中将姫には様々な伝説が伝えられている。
当麻寺に残された曼荼羅を寄進したのが、この姫であったことから、それらの説話が作り出されたのだろう。

「これが中将姫」

と、俺は征士の腕に手をかけて言った。

「俺、この像を征士に見せたかったんだ」

「ほう」

征士は、しばらく顔を近づけて、その暗い影の中の像を眺めていたが、独り言のように、

「不思議な表情をしている人だな」

と、言った。

「そうなんだ。目元は潤んでいるようで、少し開いた唇は笑っているようで、とても謎めいているんだ。ある作家は、この像のことを<大和のモナ・リザ>なんて呼んでいたが、何となく不思議な顔だろう? いつも見るたびに、雰囲気が違う。今日は、どことなく……」

「悲しそうだな」

「うん」

俺たちは、しばらくその像の前に立ち尽くした。
外では雨の音が次第に強まってくるようだ。
他に拝観客もいず、冷え冷えとした本堂の中には奇妙に濃密な空気が立ち込めている。

「当麻」

と、征士が中将姫を見つめたまま言った。

「何?」

「当麻は、あれのことを愛しているのか」

あれ、と征士が言ったのは、俺の妻のことに違いない。

「さあ」

俺はあいまいな返事をした。

「私は知っている」

と、征士は言葉を続ける。

「お前は長く付き合っていたようだったが、結婚するまでは、あれのことを愛してはいなかった。でも人は一緒に暮らすようになると、相手のことを愛するようになるのかもしれない。だから私には今のお前の気持ちはわからないのだ。だから聞いている」

「どうして、そんなことを聞く?」

「ひょっとすると、当麻に迷惑がかかるようなことになるかもしれん」

どういう意味だ? と、俺は征士に聞いた。
征士はしばらく黙っていたが、やがて感情を抑えた口調で喋りはじめた。

「これ以上は、もう黙っていられない、私たちの仲間は、そう思いはじめたのだ。だから、近々当局に具体的な抗議の行動を起こす可能性がある。もし、それを実行に移せば、きっと私は逮捕されるのではないかと思う。そうなったら、お前の立場はどうなる?」

抗議のための具体的な行動?
それはテロとか、そんなことではないのか。
俺は急に胸が苦しくなるのを感じた。

「やめろよ、征士。そんなことをしたって……。馬鹿げている」

俺は征士の腕を強く掴んで引き寄せた。
子どもの頃、そんなことがあったような気がする。
夜中に、征士が川へ河童を捕まえに行くのだと言って出かけようとした時のことだ。
いつもは俺の方がやんちゃなようだが、征士は冷静なようでいて、時々俺が思いもよらない無茶を働くことがある。

「自分の将来に傷がつくようなことを、判っていながらするもんじゃない。やめておけよ」

「やらねばならないときがあるのだ、当麻」

と、征士は首を振った。

「働く者たちを、どこまでも踏みつけにはできないと、はっきり行動で示してやらなくてはならないのだ」

「そんなことは政治家の仕事だろう。お前のすることじゃない」

「いや」

征士は首を振った。
一旦言い出したら、後へは引かない兄なのだ。

「私はやらなくてはならない。もう決心したのだ。しかし……」

征士は言葉を切って、俺の肩を引き寄せた。
思わず身体が震えた。

「ただひとつ、気がかりなのはお前のことだ、当麻。あれは、私がそんな事件を起こした後、お前をかばってくれるだろうか」

「それはありえんな」

俺は本当のことを言った。
俺と妻との間は冷え切っていた。
俺が、妻を抱かないからだ。
結婚してから、いや、最初から、ただの一度も。

俺は結婚までして、ようやく気がついたのだ。
肌を合わせたいのは、妻ではない。
懐かしい、ただ一人なのだと。

「あいつは、かんかんに怒って、俺に出て行けと言うかもしれないな」

「そうしたら、どうする」

「出ていくさ」

俺は言った。
すぐそばに、征士の胸がある。

「出ていって、九州に帰るよ。それで、お前の捕まっている留置場へでもどこへでも、毎日差し入れに通ってやる」

「当麻……」

征士の腕が強く俺を引き寄せる。
俺は視線の端で中将姫の顔が、かすかに微笑したのを見たような気がした。
俺は征士の肩に頭を寄せて、目を閉じた。

「当麻は、きっとそう言ってくれると思っていた。いいのだな、それで」

征士の息が耳元に降りかかってくるのを、俺は灼けるように感じた。

「いいよ」

俺はうなずいて言った。

「俺がそばにいる限り、お前は恋人も作らなかっただろう? だから俺、こんなところで結婚したのに。征士は彼女を見つけようともせずに、仲間とのことに熱中していたんだな。俺の気も知らないで」

「私には……。当麻以外、考えたこともない」

征士は憮然とした口調で言った。

「当麻が女のところへ行ってしまって、私はどうしようもなくなってしまった。たぶんそれがきっかけで、今の仲間たちと付き合うようになったのかもしれん」

「あのまま二人で暮らしていた方がよかったのかな」

「もう、後戻りはできん」

征士は大きなため息をついた。

「行動を起こす前に、一言お前に会って謝りたかったのだ。それで、わざわざ九州からやってきたのだ」

「どうしても引き返せないのか?」

「ああ」

俺は、それまでこらえていた涙が、一筋流れ出るのを止めることができなかった。

「泣くな、当麻」

征士は俺のあごの下に手をかけて、俺の顔を自分の方へ向けた。

「かわいそうに」

征士は俺の目尻に優しく唇をつけると、溢れ出た涙を舌の先でそっと拭う。
俺は脚の力が抜けて、今にも座り込みそうになりながら、征士の肩に必死にしがみついているようだった。

頭の奥に、子どもの頃からのいろんな情景が打件では消えていく。

小学生の夏の夕方、二人で風呂で身体を流しっこしたこと。

台風が来た晩、仔犬のライカを部屋に連れて来て、同じ寝床で川の字になって、抱き合って眠ったこと。

征士が国鉄に入って最初の給料で、俺に金の細いブレスレッドをプレゼントしてくれたこと。

俺が彼女と遅くまで飲んで帰ってくると、怒ってしばらく口をきいてくれなかったこと。

「さびしかった」

と、征士の声が聞こえた。

「俺も……」

この寺の後ろには二上山がある、と、俺は考えた。
雄岳と、雌岳。
雄岳が俺だと思っていたのに。

頭の隅に、雄岳の山頂にある大津皇子の墓のイメージが浮かんで、俺はそれを振り払うように首を振った。

「雨がやむな」

さっきまで降りしきっていた雨が、嘘のように上がろうとしている。
空から降ってくる光の束が、金堂の屋根に照明を当てたように輝いていた。
どこからか子どもたちの叫び声も聞こえてくる。

俺は征士 の腕に手をかけて、征士の顔を見た。
征士も俺を見つめた。
それから、そっと俺の唇に唇を重ねてきた。
生まれてきたときから、こうなるように決まっていたのだ、と俺は心の中で呟いていた。

「中将姫にそっくりな顔をしているな、当麻」

と、しばらくして征士が言った。
俺は思わず笑った。
征士がそう言うのではないかと、さっきから密かに考えていたからだ。

当麻寺へきてよかった、と、俺は心の中で呟いた。
そのとき雨はもう完全にやんで、透明な光は大きな傘のように辺りを照らしはじめていた。





おわり

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